お茶の普及に貢献した人
最澄(伝教大師)
最澄(伝教大師)は、805年、比叡山の現滋賀県大津市の日吉大社に唐(中国)より持ち帰ったお茶の種を植える。(『日吉社神道秘密記』)僧侶や貴族の間で薬用や儀式に用いられたが、一般には普及せず、遣唐使の廃止により、次第に衰退していく。
空海(弘法大師)
空海(弘法大師)は、806年、唐(中国)より茶の種、石臼を持ち帰り、比叡山に植える。(『弘法大師年譜』)僧侶や貴族の間で薬用や儀式に用いられたが、一般には普及せず、遣唐使の廃止により、次第に衰退していく。
栄西禅師(1141~1215)
わが国の茶、中興の祖。臨済宗を宋(中国)から伝えた。抹茶系の製茶法、抹茶式のお茶のたて方を初めてわが国へもたらした。さらにわが国最初の茶専門書「喫茶養生記」を著す。
中国の茶の諸文献「茶経」をもとに茶の薬効を仏教と関連づけながら栽培から製茶・貯蔵・飲用・効能に至るまで精力的に記述している。
「喫茶養生記」では「茶は養生の仙薬なり 延命の妙術なり」と効用を力説。薬用としてお茶に甘葛を入れたり、生姜で辛味をつけていた。お茶を飲んでいると心臓や肝臓などの五臓によく、病気にもかからないと書き残している。
明恵上人(1173~1232)
鎌倉時代の高僧、栄西禅師とともに茶業中興の祖といわれる。栄西禅師からゆずりうけた茶の実を栂尾(京都山城)に植え(『栂尾明恵上人伝』)、さらに宇治、伊勢、駿河の清見、川越等各地に広め今日の茶産業を形成した。また諸天加護、父母孝養、悪魔降伏、睡眠自除などの「茶の十徳」を述べた。
聖一国師(1202~1280)
鎌倉時代の高僧で東福寺(京都)の開山。宋(中国)から帰朝のとき、茶の実と仏書千余巻を持ち帰った。茶の実は郷里に近い駿河足窪(現静岡市葵区足久保)の地に植えたと伝えられ静岡茶の祖といわれる。(『東福寺誌』)
大応国師(南浦紹明)(1235~1308)
宋(中国)から帰朝の際、径山寺から茶台子(茶の湯で用いられる棚)以下の茶道具一式と茶に関する書物7部を持ち帰って中国の茶の方式を大徳寺(京都)に伝えた。(『本朝高僧伝』)
また、茶宴や闘茶の習俗をも日本に持ち帰ったとされている。
千利休(1522~1591)
茶道の大成者「千利休」により、抹茶を点てる茶道の基礎が作られる。「闘茶」飲み比べて、産地をあてる遊びが盛んに行われる。
この頃から茶道は日本独特の精神文化として現代に深く息づく。
永谷宗七郎(宗円)
現京都府宇治田原町湯屋谷の蒸し製茶の創始者「永谷宗七郎(宗円)」は、てん茶が蒸し製であるのにヒントを得て、蒸して揉み乾かす精良の煎茶を創製する。湯蒸し茶であろう。
それまでは中国の製法である、茶の芽を釜で炒って乾燥させる釜炒り製法でしたが、宗円は蒸気で蒸した葉をホイロの上で揉みながら乾燥させ、色・形・香りともに優れたお茶を作りました
山本嘉兵衛(徳翁)
京都宇治の茶師、山本嘉兵衛(徳翁)が玉露の製法を考案し、好評を博する。
1835年(天保6年)に山本山の六代目として山城国久世郡小倉村の木下吉左右衛門の家で、抹茶を作る過程で蒸された葉をかき回したところ、丸く団子になったところから「玉の露」と名付け、商品化しました。
お茶の昔ばなし
豊臣秀吉と右田三成の緑はお茶がきっかけ!
「武将感状記」という記録によると太閤秀吉がかつて長浜城主のとき、ある日鷹狩りをもよおし、終日山野をめぐり山寺で憩い、茶を求めました。やがて佐吉という眉目秀麗なる小坊主が大茶碗にたっぷりぬるい抹茶をたてて捧げました。秀吉は今一服と所望すると、次はやや熱くして半分の量を捧げました。秀吉はこころみに三度所望しました。すると最後は小茶碗にいとも少量を熱くして 恭しく進めました。秀吉はそれを飲み、小僧の才知に感じ入り和尚に乞うて連れ帰り、近侍としました。この小僧が後に天下に名をなした器量人、石田三成その人です。飲み手のことを考えて茶を入れる心、ぜひとも学びたいものです。